柴田勝二『〈作者〉をめぐる冒険 テクスト論を超えて』書評

yahiro992005-06-07

柴田勝二『〈作者〉をめぐる冒険 テクスト論を超えて』書評
                               
「テクスト論を超えて」という副題をつけることで、読者に〈新しい小説の読み方〉を提示していることを匂わせる本書の論旨は、あとがきにおいて筆者が「私がここでとった方向性は、いわゆるテクスト論的な批評とさして異質ではない」と結ぶことによって破綻している。
さらに、加藤典洋の『テクストから遠く離れて』(講談社、2004年)に「強い共感を覚え」る柴田の〈仮構されたもう1人の「読み手」〉という概念は、いわゆる受容理論とよばれるイーザーの「内包された読者」(『行為としての読書 美的作用の理論』岩波書店、1998年)とフィッシュの「解釈共同体」(『このクラスにテクストはありますか 解釈共同体の権威(3)』みすず書房、1992年)を足して2で割り10倍に薄めたような概念であり、なんら目新しいものではない。
また、本書の森鴎外の『舞姫』論にしろ、大岡昇平の『野火』論にしろ、ある種、単なる作品論作家論の枠を大きく逸脱することはなく、わざわざ「機能としての作者」という概念を出さないと説明できない事柄でもない。
そもそも、テクスト論は〈作者の意図〉を追及することが作品の唯一の読みであるとされた旧来の文学解釈を否定する形で現れ、〈作者の意図〉に回収されない読者の読みの多様性を拾い上げていこうとしたのであり、作者の存在すべてを否定するようなものではないことは明らかである。テクスト論を「作者の存在をカッコに括って」捨象してきたと曲解する柴田こそが、象徴的な意味において、加藤とまとめて、その「存在をカッコに括って」捨象されるべきなのである。